癌などの高度の医療が必要な患者を受け入れる施設として、都道府県には地域拠点病院があります。
そこには地域連携室がありセカンドオピニオンや転院などの交通整理をしてくれます。
主治医の診療録と相手先の医師名が決まれば受診日の設定が頂けます。
地域を越えての移動も可能です。
制度充実の一つです。
☆有田美智世☆
日本ブログ村に参加しています!公明党「さい帯血法整備推進プロジェクトチーム」のヒアリングに
正岡徹骨髄移植推進財団理事長、
中林正雄日本さい帯血バンクネットワーク会長、
小寺良尚造血細胞移植学会会長と私の4人が招集され
それぞれの立場からの発言がありました。
そして法整備について考え方の一致が確認されました。
「プロジェクトはさい帯血であるが
骨髄移植、
末梢血移植、
さい帯血移植は
患者にとって選択肢は同じであり、
そのいずれも大きな一つの屋根に入れる様な法律が
望ましい」というものです。
私達は公明党と厚生労働省に
法整備の推進をお願いし、
今後は全国会議員さんにご支持頂ける様
協力していきます。
☆有田美智世☆
日本ブログ村に参加しています!母と私達家族の体験談です。
1995年3月に、母は急性骨髄性白血病を発症しました。
忘れもしない阪神淡路大震災(1月17日)から2ヶ月経った時でした。
当時50歳以上は、骨髄移植をすると体力的に耐えれないとされていました。
母は51歳でした。
家族にしてみれば、骨髄移植の年齢制限に納得ができず、担当医にお願いして親近者の骨髄適合を検査してもらいました。
家族の期待も虚しく、適合者はいませんでした。
その当時、臍帯血移植も存在していない時で、抗癌剤治療しか道はありませんでした。
本人と家族の闘いが始まりました。
この闘病期間中、私達家族に色んな事がありました。
①発病して1997~1998年に看病してくれていた母の両親が次々と病気で亡くなりました。
②2001年1月末に、私(次男)が大型トラックと普通車で正面衝突の大事故で死にかけて、助かりましたが長期入院生活(1年6ヶ月)になりました。母は、その時退院していて、体力も回復していない状態で看病をしてくれてましたが、精神的に一番疲れたと思います。ケガの状態も、左足大腿切断・右足大腿粉砕骨折・肩甲骨脱臼・右足5本指脱臼・頭部額外傷20針と、多数ケガしていたので、先が見えない状態でした。私の状態が少しよくなり、転院してからリハビリの段階になって母の病気が再発しました。
③父が2006年正月に脳梗塞で倒れ、この時も母は退院していて、家族の居る前でだったので、すぐに病院に連れて行ったので後遺症も左手足に痺れがありますが軽度でした。
④2009年11月、母の弟(長男)が病気で亡くなりました。
⑤2010年に母の姉(長女)が末期の膀胱癌が検査でわかり、本人の意志で延命治療しないで、施設で過ごしています。母の姉は25年程前、糖尿病から脊椎に菌が入り、頸椎損傷で車椅子生活をしています。お互いに、病気と障がいがあっても、母の姉は母をお思い、母は姉を思い、退院して体力が回復すると母は、車で1時間少し掛かる施設に面会に行っています。
現在、母は67歳。入退院を繰り返し治療回数13回。闘病期間16年8ヶ月で闘病中です。
これだけ色んな出来事がありましたが、母はよく言っています。
私は生かされた命やから、できる事を頑張る。言葉の通り行動していると思います。
発症してから入院の時は、父・兄・私(次男)と男世帯で仕事をしているので、母の病院に行くのは休日か仕事帰りでした。
副作用で苦しい時、私達には心配かけないように、連絡もせずに母一人で治療に耐えてます。ホンマに凄いです。
担当医にも、本気だと思いますが、急性骨髄性白血病で事例の無いぐらい長生きして、記録作るわと言って笑っています。
私は母を尊敬しています。私は障がい者(左大腿義足)になりましたが、母の頑張る姿を私は見ているから、こんな事ぐらいで負けたらアカンと、何か事ある時に自分に言い聞かせています。
最後に・・有田さんともっと早くに知り会えていたら、母の白血病は完治していたかもしれません。
医者が白旗を上げ、専門の医師にバトンを渡し、家族・本人にさい帯血移植の情報提供早くにしていてくれたら、完治の可能性があったと悔いが残ります。